なぜか日付が一日ズレている。なんでそういうことになったのかはわからないが、一体全体日付なんてどうでもいいので、どうでもいいことにする。そのとおり、日付なんてどうでもいいはずなのだが、ブログにはタイムスタンプがずっとついて回る。ほとんど管理に便利であるからというだけの理由だと思うのだが、そうやって生み出された形式は、やっぱり日記以外として成り立ちにくいように思う。何の話かというと、画用紙を与えられるのと日記帳を与えられるのでは、行く末が全然違うというようなこと。次は何をやろうか。本当は作るべきサイトがあるのだが、それをまだやらないでいるのは最も不得意とするジャンルのサイトのひとつであるからだろうと思う。だがやらねばならない。でも、その前にもうちょっと短編のようにブログをやってみるのもいいな。前からこういう短い(期間的にはさほど短くなかったが)読み物の形で書きたいことがいくつかあったので、そういうものを作るのに有象無象のブログサービスは便利だと思った次第。でも、それがはてなであらねばならない理由はないや。

ゲームやってマンガ読んでばっかいた(夏休みなので)わけで、インターネットはあんまり見てなかった。いや、見てたな。はてなを見てなかっただけか。ひさびさにちょこちょこと見てみたのだが、以前と全く変わらないので驚いた。いる人もほとんど変わらない。何かが増えたり、減ったりしている感じもしない。突然ピンチョンの「エントロピー」という小説を思い出したが、あんまり関係ないような気がする。

思い出したこともいろいろ書いておこう。いつか誰かに訊いてみたいと思っていたのだが、「搭乗型の人型ロボットは原理的にあり得ない」という説は、まだ世間を大手を振って歩いているだろうか。あの説が大嫌いだ。マンガだのアニメだのを嘲笑するためにあの説を持ち出す連中はもちろん、アニメだのマンガだのに与しているくせに「あのようなロボットに搭乗すれば大変に揺れて悪酔いする。そもそもロボットを人型にすること自体がリアリズムの見地からしてナンセンス」などとしたり顔で語る連中が一番嫌いだ。ガンダムを作った富野という人も、ロボットを人型にするなんて実際にはあり得ないとか言っていて、残念に思ったのを覚えている。しかしまあたしかに、彼らは作品を作る上でリアリズムを重視しなければならないのだから仕方がないのだろう。だが、むしろどうしてロボットを人型にすることが無意味だと言ってしまえるのだろうか。まったくわからない。この説に正しさを感じる彼らにとって「意味」とは合理的理解しかないのであろうか。ここ10年ほど、人間の形をしたロボットが世界中で開発されているのを見て、「そら見たことか」と思ったものだ。人間は、人型のロボットがほしいのだ。乗り心地や物理的可能性や合理性ではなく、作りたいから作るのである。だから、未来には必ず人型の搭乗型ロボットが作られると思うし、個人的にはそちらにこそリアリズムを感じる。今の技術に照らし合わせて不可能だからといって、それを作る理由が全くないとは言えない。だから、「パトレイバー」がマンガそのものであることをいい気になってクドクド語ってみせる「ミニパト」という映画は大嫌いだし、それをアナログ的手法に見えるフルCGで作ったとかで悦に入っているような今の押井守は本当に嫌いだ。もちろん、いつそんなロボットが作られるようになるかとか、現状の問題をどう解決するかなんて、知らないが。しかし、誰かが実際に飛んでみせるまでは、飛行機だって常識はずれなものだったのだ。

マンガもいろいろ読んでいた。ここ2〜3日は桜玉吉鈴木みそについてずっと考えている。これはとても難しい問題なのだ。正直言って両者ともあまり好きではないのでかえって好き勝手に書いてしまえるが、どちらか選べと言われたら鈴木みそに軍配を上げそうだ。桜玉吉鈴木みそを比べて、「どっちを選ぶか」などという下品な質問をすることに意味があるのかという向きもあろうが、同じファミ通で描いていたとか、桜玉吉と入れ替わりになる形で鈴木みそが連載を続けたということはもちろん、「しあわせのかたち」の最終回と「あんたっちゃぶる」「おとなのしくみ」の終わり方など、両者には対比できる要素が多いと感じるため、考えてしまわずにおれない。桜玉吉の内省的な作風は本当に素晴らしいと思う。「御緩漫玉日記」一巻の前半は、確実に「幽玄」で自分がやったことを理解し、そこからさらに踏み出そうとするものだ。しかし、彼は自己を追求し、批評する姿勢を最終的に避け、「自虐的な笑い」と「周囲(編集部)いじりの笑い」に逃げることを許してしまう。いつも最後には許してしまうのだ。かつ、自分のその逃げにひどく自覚的である。「真面目になりきれない」「あえてハズしてしまう」自分を理解しながら、表現としても人間としても踏み出さない。鈴木みそはあの我の強さや思ったことを言い切ってしまうアクの強さが最初からあって、個人的には「この人と意見が一致しないとケンカになりそうだなあ」という人であるが、しかし自分のことをはっきり、あっさりと決められる人間としての強さに今は魅力を感じる。「普通のバランス感覚を持った普通の人」で、だから何でも自分を軸に理解できようとしている。両者ともある意味でアナキストたろうとしているが、それでもどちらか選べと言われたら鈴木みそかなと言うのはそういうわけである。でも本当に、両者ともさほど好きというわけではないし、でも好きな漫画を描いている人たちだな。こんなこと書いて何の意味があるのか本当にわからないけど、消してばっかりなのも意味がないのでこの文章は投稿してみよう。