思い出したこともいろいろ書いておこう。いつか誰かに訊いてみたいと思っていたのだが、「搭乗型の人型ロボットは原理的にあり得ない」という説は、まだ世間を大手を振って歩いているだろうか。あの説が大嫌いだ。マンガだのアニメだのを嘲笑するためにあの説を持ち出す連中はもちろん、アニメだのマンガだのに与しているくせに「あのようなロボットに搭乗すれば大変に揺れて悪酔いする。そもそもロボットを人型にすること自体がリアリズムの見地からしてナンセンス」などとしたり顔で語る連中が一番嫌いだ。ガンダムを作った富野という人も、ロボットを人型にするなんて実際にはあり得ないとか言っていて、残念に思ったのを覚えている。しかしまあたしかに、彼らは作品を作る上でリアリズムを重視しなければならないのだから仕方がないのだろう。だが、むしろどうしてロボットを人型にすることが無意味だと言ってしまえるのだろうか。まったくわからない。この説に正しさを感じる彼らにとって「意味」とは合理的理解しかないのであろうか。ここ10年ほど、人間の形をしたロボットが世界中で開発されているのを見て、「そら見たことか」と思ったものだ。人間は、人型のロボットがほしいのだ。乗り心地や物理的可能性や合理性ではなく、作りたいから作るのである。だから、未来には必ず人型の搭乗型ロボットが作られると思うし、個人的にはそちらにこそリアリズムを感じる。今の技術に照らし合わせて不可能だからといって、それを作る理由が全くないとは言えない。だから、「パトレイバー」がマンガそのものであることをいい気になってクドクド語ってみせる「ミニパト」という映画は大嫌いだし、それをアナログ的手法に見えるフルCGで作ったとかで悦に入っているような今の押井守は本当に嫌いだ。もちろん、いつそんなロボットが作られるようになるかとか、現状の問題をどう解決するかなんて、知らないが。しかし、誰かが実際に飛んでみせるまでは、飛行機だって常識はずれなものだったのだ。