ボコノン教について、考えねばならなくなったので、駆けあしに「猫のゆりかご」を再読した。
ぼくがこの物語を最初に読んだのは、中学生の時だと思う。じっさい、カート・ヴォネガットの作品のアイロニーは、中学生が読んで自尊心を満足させ、何か偉くでもなった気分を味わうのには、ちょうどいい内容だという気がする。
しかし、ぼくは今でも、この作家が大好きだ。それは彼が人間愛に裏打ちされた文章を書くからである。ぼくはウェブサイトを作るときに、本や音楽やアニメやゲームについてのオマージュをちりばめるのが好きだが、ヴォネガットについても何度かやったことがある。
「猫のゆりかご」というタイトルが意味しているのは、あやとりの形の一種だ。ウェブで調べる限りは、どうやら2人遊びの1つらしい。画像がwikipediaにあった。物語の中では、主に文明や科学、理性的な判断、現実というもの、を語るときに登場する。輪になった紐に指を通しているだけで、そこには本当は意味なんてない、猫もゆりかごもないのだ、という現実を喩えているのだ。
ボコノン教は、この物語の主題と呼べるものの中で、もっとも大きなものの1つだ。その教典の主な内容は、ここに転載されている。
しかし、ここで先に、断っておいたほうがいいと思う。ぼくはこれから、ボコノン教が、はてなにはびこっている思想より優れているから学びなさいとか、逆に、はてなに見られる思想の中身が、ボコノン教の教義とそっくりで、つまりはてな「こそ」がカルト的なのだとか、そういうことを書くわけじゃない。「はてなの連中は、カルトと同じだ!」などと、読者に対してセンセーショナルな書き方ができれば、ずっとこの話は簡単だろう。しかし、そういう話ではないんだ。
さて、本題に入るために、物語からボコノン教に関する部分だけを取り出してうまく説明することができるか、やってみよう。そんなことができるか、わからないけど。
漂流の末、貧困が支配するサン・ロレンゾ島にたどり着いたボコノンは、島を経済的に成功させることが不可能だと知り、「偽の」宗教を作り上げる。それがボコノン教だ。この宗教の教典の最初にはこう書かれている。

わたしがこれから語ろうとするさまざまな真実の事柄は、みんなまっ赤な嘘である。

これは、つまり、人々が諦めながらすがる宗教なんだ。ボコノン教は全くのでたらめだが、痛みを和らげることができる。

フォーマを生きるよるべとしなさい。それはあなたを、勇敢で、親切で、健康で、幸福な人間にする。

フォーマとは「無害な非現実」のことだ。真実かどうかは、全く重要ではないのだ。ボコノンは、島の支配者に対して、この宗教を迫害の対象にするように持ちかけるが、「その方が宗教らしい」というのが理由である。まったく、すべてはインチキであり、でたらめなのだ。

よい社会は、悪に善をぶつけ、両者のあいだの緊張を常に高めておくことで築けるというのが、ボコノンの信念であった。

つまりこれは、社会的な問題解決をせずに、人々が幸せになるための方法だ、というのである。ただ、均衡状態を維持しながら、人生をやり過ごす手段なのだ。ぼくが前回引用したカリプソを、もう一度引用しよう。

”パパ”モンザーノはわるいやつ
だけど”パパ”がいなければ
おれはきっと悲しいだろう
だって、悪者の”パパ”なしで
このごろつきのボコノンが
善人面できるわけがない

これは、ただ「善人面」するためのものでしかないのだ。島の支配者である”パパ”モンザーノを「悪者」にすれば、自分は「善人」だと思いながら暮らしていける。複雑な現実を目のあたりにすると、「目がまわる、目がまわる、目がまわる」とだけ言って、その意味について考えるのをやめることができる。
ぼくが、はてなと結びつけようとしているのは、そこだ。ボコノン教の教典は、気まぐれに、次々と文章が増えていく、「更新される」教典だ。ぼくは、はてなのキーワードのようだと思った。どこにも真実などないのに、キーワードを作ることで、自分たちの論理を、真実のように積み上げていける。それが楽しいならいいんだ。別にいいと思う。でも、ときには、自分たちのやっていることが、「フォーマ」であると嘯きながら、同時に自分たちこそが、現実を正しく捉えられているとする。自分たちの紡ぎ出した言葉だけが、言葉のような気がしてくる。
では、現実を「正しく」捉えるとは、どういうことなのか?それについては、まず山形浩生さんの文章を読んでみよう。

いまこの本を読んでみても、たぶん1960年代(または70年代だっていい)の大学生たちが抱いたほどの共感を、あなたたちは本書に抱くことができないんじゃないか、という気がする。ぼくは、大学時代に読んだときのおもしろさを、今回読み直して感じることができなかったし、本書のラストでは、むしろ暗澹たる思いにかられてしまった。それはたぶん、ぼくが歳をとったせいもあるのだろうけれど、同時に時代がかわったせいが大きいんだろうと思う。ヴォネガットがこの本を書いたときの読者たちに比べて、ぼくたちはすでに宗教というものにすさまじく幻滅し、すさまじく警戒心を抱くようになってしまったからだ。
(中略)
 ヴォネガットは、科学や文明に対抗するものとして、皮肉まじりとはいえ、宗教――それもウソの宗教――を出してきた。ウソの宗教を信じる非文明国。でも、いまのぼくたちは、もうヴォネガット式の皮肉をこめてすら、宗教に頼りきることはできなくなっている。幻想を信じて貧困の中でも幸せな人々――そういう図式を皮肉としてすら、いまぼくたちのすむ文明のアンチテーゼとしてすら受け入れることは、もうできなくなってきているんじゃないだろうか。本書を読む二十一世紀のあなたたちは、どう思うだろう。
http://cruel.org/other/penguincat.html

複雑な現実に、簡単な解を与えれば、たとえそれが嘘であっても幸福を感じさせることができるというのが、ボコノン教が文明社会に対して持つ皮肉だ。しかし、結局ボコノン教は、現実に対して別の規範意識を強いたに過ぎない。ボコノン教が現実を「正しく」捉えていたわけではないのである。どこにも真実がないから、仮の真実を作ったのに、やがて信者達はそれを本当に信じてしまう。ボコノン自身が、自分はペテン師であると言っても、信者達は最後に、教えに従って集団自殺してしまう。ぼくにも、山形さんが書かれているように、「暗澹たる」ラストに見えてしまう。
でも、ヴォネガットはそれに気付いていたのではないかな、とぼくは思う。ボコノン教は文明社会への皮肉として作用しているが、同時に、この本の中ではボコノン教が「正しくない」ということが、ちゃんと注意喚起されているのだ。それは、いたるところに書かれた、バカバカしくて、嘘であることを強調する、ボコノン教の警句ではない。ボコノン教徒のキャッスルに対してニュートが言った、以下のセリフだ。

ニュートが鼻を鳴らした。「宗教なんて!」
「何と言ったかね?」とキャッスル。
「猫、いますか?」とニュートは言った。「ゆりかご、ありますか?」

これは、ボコノン教が、現実を読み解く手段として採用されているだけで、「偽」であることに変わりはないという意味だ。わざわざ本のメインタイトルを使いながら、ボコノン教が批判されているのである。この意味は小さくない。最後に世界が滅びてしまって、結局ニュートはボコノン教徒になるけれど、それはすべての規範が崩壊して、ほとんどの人がボコノン教徒にならざるをえなくなっているだけだ。ボコノン教に真実があるからじゃない。米国人のクロズビー夫妻は狂信的な愛国者で、ボコノン教徒からすればグランファルーンに一喜一憂しているように見えるが、見方を変えればどちらも同じである。科学や文明を信じることと、ボコノン教を信じることには、実はそんなに差はなかったのだ。ヴォネガットの小説には、虐げられている人間や、醜悪な人間がたくさん出てくるが、どちらが正しく、どちらが間違いだとはどこにも書いていない。
さて、言葉が出たのでついでに書くと、グランファルーンとは以下のようなものだ。

神がそうあらしめているのではなく、人間が勝手に作り上げた間違ったカラース。例としては、共産党アメリカ愛国婦人団体、ジェネラルエレクトリック社、あらゆる時代のあらゆる国家。

カラースとは、「民族や制度や階級などに全くとらわれない、神の御心を行うためのチーム」のこと、だそうだ。そして、面白いことに、グランファルーンという言葉は、インターネットではカルト教団やキャッチセールスが、顧客との間に連帯感を高めるために使うテクニックとして頻繁に見ることができる。

原文では「誇りを感じさせるが意味のない人間同士の連帯」となっていますが…要するに、「仲間意識とえこひいき」です。
あなたが、外国に旅行に行くとしますね。
周りは言葉も文化も違う人たちです。あなたはちょっと心細くなります。そんなとき、レストランの隣の席に座ったのが、たまたま日本人だったら?
それがたとえガラの悪い兄ちゃんでも、ストリートファイトやってそうな挌闘野郎でも(なんじゃそりゃ)、日本国内にいれば絶対に覚えることのない親近感を持つことでしょう。
あなたと、その人とのつながりは単に「住んでいる国が同じ」というだけのことです。たったそれだけで、あなたとその見知らぬ日本人との間には連帯感が生まれてしまうのです。
もっとも、そんな特殊な状況でなくとも、あなたは知らず知らずのうちに誰かに対して親近感を覚えているはずです。
大学のラウンジで、同じ出身地の人と出会ったとき。
同じ大学に所属する人だったとき。
同じ趣味を持つ人と出会ったとき。
何でもいいんです。自分と、その人との間に共通項を見つけた時、あなたのその人に対する評価は、(よほどのことがない限り)上がっているはずです。
自分と相手の間に共通項を作り出すこと。これが、グランファルーン・テクニックと呼ばれるものです。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~moonover/psy/topics-cult.htm

確かにグランファルーンは「誇りを感じさせるが意味のない人間同士の連帯」で間違いなさそうだけれど、しかし社会において他者を批判する者というものは、しばしば「意味のない」などと軽々しく言ってしまうんだ。ぼくは気に入らない。だったら、「意味のある連帯」とは何だというのだろう?自分の立っている地盤がどれほど確かなのだと?
ボコノン教は、文明社会におけるあらゆる連帯を、グランファルーンと呼んで無意味とした。それは文明社会という現実を無効化し、自分たちの連帯こそ意味があるとするための、まさにカルト教団的な、でたらめだった。
ところが今では、自分の連帯に意味があると思う人々が、カルト内部の連帯を無意味だと主張するために「グランファルーン」という言葉を使っている。これは滑稽だ。ひょっとして(違うと思うが)、元々存在する用語で、皮肉としてヴォネガットが使っているのかな?だとすれば、かなり皮肉が効いている。
結局、「連帯」なんて、どういうものであれ、「無意味」なのである。「連帯」に限らず、本来、コミュニケーションというものを論理的に突き詰めるならば、だれもがみんな、別の誰かから見ればカルト教団みたいなものなんだ。どこにも了解できる真実などなく、全員が、それぞれにとっての真実を持っている。コミュニケーションとは、わずかずつルールを積み上げて、お互いを把握していく作業だ。もちろん、どちらが正しいかを決めるゲームなんかじゃない。
ところが、はてなでは、単にはてなで築いてきただけのルール=常識を、いきなり他者に適用しようとする人が多いように思う。重ねて言うが、自分の意見が正当かどうかは、分からない。確認のしようは、どこにもない。論理的というのは、本来そういうことなんだ。
それなのに、相手が自分と同じルールを了解していないことを、「客観的でない」態度であるとして退け、そこに議論での優位性を訴えたりするのは、まさに「客観的」ではない。それは「客観性A」とでもいうような、限りなく不確かな視点だ。
じゃあ一体、どうしたらいいのだろうか?ぼくは、この間、それに対する私見をコメント欄に書いたとこだ。

「そんな言い方を許したら、常識なんて成り立たないじゃないか」と違和感を感じる方もいると思いますが、しかし、常識なんて、最初からどこにも成り立ってはいません。
でもだからといってぼくは、他人が不快感を感じることをやっていいと言いたいわけでは、もちろんありません。なぜなら、それは、すべてが考え方の問題であるということを、自分の考えを通すためにしか使っていないからです。それは論理的にも破綻したものなので、分かりながらそうしているとしたら、詐術的なことだと思います。
つまり、すべてが考え方の問題でしかないから、ぼくは、他人について想像力を働かせて、相手がいやがるようなことをしないとか、ばかみたいなことを言いたいのです。でなければ、感情とか個人的な倫理観とか、生理的な好悪に基づいて行動していると言えばいいと思うのですが、なぜか多くの人が、自分は感情的であるとは言いたくないので、いろんな言い方で自分が「正しい」と言おうとしているように思います。ぼくは、それこそが、言ってみれば「正しくない」ことなのにな、と考えています。
http://d.hatena.ne.jp/ice9/comment?date=20060531#c

ぼくは、これがナイスだと思うな。世界の限界が自分なら、誰が正しいという議論は成り立たない。でも、このコミュニケーションの考え方は、安易な相対主義による自己言及のパラドクスくらいは楽に越えていけると思うんだ。アイロニーに酔っていた、中学生のぼくにも、教えてあげたいものだ。
 
アイス・ナインは、「猫のゆりかご」に登場する、世界を滅ぼす最終兵器。水の分子の組成をどうにかしちゃって、融点を摂氏45.8度に変えてしまうもの。わずかな結晶を海へ放り込めば、常温で固体、つまり氷にしてしまう。世界よ、凍れ。