さて、昨日の話の続きというか、結局ここまで書いたことって全部続いてるわけなんだけど、続いているという意味では、これまた5年ぐらい前からずっと同じことばっかり言っているような気もする。しつこい性格なので。
たとえば、こういうのもそうだ。

また悪意ある人々のせいで、また我々の自由が奪われようとしています
http://www11.atwiki.jp/stop_kisei/

こういう抗議活動的なものというのは、ネットで何度も見たことがあるけど、やっぱり同じ印象だ。
つまり、ポルノを規制しようとする人々が悪意を持っているなんて、本気でそんな誤解をしてるのだろうか、って思う。
ぼくには、彼らが何をしたいのかよく分からない。自分にとって都合の悪いことをしている人について「悪」だと言えば、自分たちの行為が社会的に認められるのだろうか?
ここから、鎌やんさんのサイトがリンクされているのを見つけたが、やっぱり同じようなことを思った。

天下り先を作るためにインターネットやエロマンガやアニメに難癖をつけようとしている
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20060523#1148315311

天下りは悪いことで、たぶんネットやエロマンガやアニメよりも社会的に悪であるから、そういう奴に表現を規制するようなことはさせられない、ということだろうか。
なんとなく、坊主憎けりゃ袈裟まで、というものを感じてしまう。こういう活動というのは袈裟だろうが木魚だろうが、とにかく埃が出そうなところを手当たり次第に叩いて、それで坊主が引っ込むなら勝ち、という感じに見える。
「有害」とされるネットやマンガやアニメに眉をひそめる人たちは、それを規制する人たちが天下り連中だからといって、「有害」なものが「無害」に化けるとは思っていないだろう、とぼくは思うのだが、甘いのだろうか。世の中というのは、袈裟にいちゃもんがついて坊主が引っ込めば、坊主そのものが悪かったと信じるようなものなのだろうか。
しかし、別の言い方をするなら、袈裟をあげつらって坊主を引っ込ませるような抗議のあり方とは、「天下り先を作るためにインターネットやエロマンガやアニメに難癖をつけようとし」ている連中と、さほど変わらない、誠実ならざる態度だとぼくは思うのだ。それでもいいのかもしれないが、それでいて、社会正義を説いているのだから、重ねて言うけど、ぼくには、彼らが何をしたいのかよく分からない。自分たちの表現の正義を社会に認めさせるには、誠実ならざる手段を執ってもいい、というように見える。相手が誠実ならざる連中なのだから?
そもそも、「犯罪率の向上に寄与していないから、このようなポルノは存在してもいいのだ」という考え方は、有効なのだろうか。表現の自由と倫理観と犯罪率は、ぼくからすると全部別のことだと思うのだが、このへんはもう法律の問題になると全部密接に絡んでいるのだろう。
個人的な考えでは、アダルトゲームやエロマンガのパンキッシュな感性があってこそ好きなので、社会的に認められるのはどうかということになるのだが、最近はそういう人は少ないのかもしれない。しかしポルノというものが近代社会には反するものだというのは明らかだ。
そして、ポルノに限らず、ご禁制のものというのは規制されようがなんだろうが、どのような形でも残っていくし、規制されたり、または黙認された上での発展というものもあるとも思うのだが、なぜ法が保障してくれる表現の自由など持ち出してそれを守ろうとするのか、ぼくには分からない。
さて、自分がこういう考え方をしていると思い当たると、ときどき思い出すのが以下の言葉だ。

ナチス共産主義者を弾圧した時、私は不安に駆られたが、自分は共産主義者ではなかったので、何の行動も起こさなかった。
その次、ナチス社会主義者を弾圧した。私は更に不安を感じたが、自分は社会主義者ではないので、何の抗議もしなかった。
それからナチスは学生、新聞、ユダヤ人と順次弾圧の輪を広げていき、そのたびに私の不安は増大した。が、それでも私は行動に出なかった。
ある日、ついにナチスは教会を弾圧してきた。そして、私は牧師だったので、行動に立ち上がった。しかし、その時はすべてがあまりに遅すぎた。

ぼくにはこの言葉が全く響かない。うまくできているとは思うが、これはやっぱり後からしか言い得ないことなのだし、それに、これを警句として受け取って何かしようと思える人が、自分の意志で何かを選んでいるとはぼくは思わない。ぼくは属する社会やそこでの自由がどうなったって、結局自分のしたいことしか、しないだろう。それによって牢に繋がれたって殺されたって、ぼくは構わない。
わざわざ「お前は正しいことをやっている」などと保障してもらわなくたっていいのだ。