イヤな天気だなあ。
以下の記事がちょっと話題になっていた。
http://c-news.jp/c-web/ShowArticle.do?did=01&aid=00007854
「『PS3』の期待度高く4割弱が購入に前向き」と書いてあるんだけど、実際にはそこまでのデータではないというのは、データの見方に慣れていなくたって、見ればまあ分かる。
この数字がどういうことかということについては、この人の意見にぼくも近い。
http://d.hatena.ne.jp/kikori2660/20060523#p2

10代の若者にもっとも人気があるのが、PS3という結果。やったねクタ!でも15〜19歳の若者がとてもパッと出せる金額じゃないから問題になっているわけで。この記事を詳しく読めば読むほど、このタイトルの奇妙さが気になります。
そりゃあね。俺もフェラーリ欲しいですよ。免許無いけど。でも「魅力を感じる」事と「購入出来る」事は全く別なハズです。

まったくごもっともだと思うけれど、ぼくは以下のところが違う。

こんないい加減な結論を導き出すマーケティングってアリなのかよ。

ぼくは我田引水で用意された結論にものごとを導くのを否定しないなあ。数字に対する客観的な解釈なんてないし、マーケティングとか数字の読み方なんてしょせんそんなものだというふうに、思っているせいかもしれないけど。ぼくだって、たしかに「こういう書き方はむやみにPS3の優位ばかりをアピールしているな」と思うんだけど、それよりもずっと文章を書くってそんなものじゃないか、と思うのだ。意図的にPS3に有利な書き方をしてる人は、たしかに不実なのかもしれないけれど、任天堂に好意的な書き方をしている人がそうではないとは、僕には思えない。結局は、だれにとって誠実なのかでしかないと思う。だからこの記事に対しても、せいぜい、我田引水の文章を書くのがヘタだという印象にしかならない。
昨日書いた「絶対的」とか「相対的」についての話(http://d.hatena.ne.jp/ice9/20060523#1148342731)もそうなんだけど、ぼくが最近いろいろなブログを見ていて違和感を感じるのは、そこだ。もうずっと、5年以上のあいだ、ネットで誰かに対して批判を繰り広げる人々は、ぼくには「自分こそが客観的な視座におり、それは正しい」と言いたげに見える。なぜなのだろうか。おそらくは、ネットには幅広い言論があるわけではなくて、議論のための、論争のためのパワーゲームばかりが溢れているからだと思う。マル派とバツ派に分かれて、どちらの旗色が悪いか決めずにはおれない。
そうなると、大事なのは旗色だけだ。「正義」や「真理」を決定するための論争なんだから、正義が事実どこに存在するかとということは、もう無縁のものだ。正義とは相対的なものだということが露呈しているのなら、なおさらだろう。結局これがどちらが正義とも言えない応援合戦なのだったら、それぞれの価値観を強く打ち出した書き方をしてればいいや、とぼくは思う。正義や公平さなんていらないじゃないか。しかしネットにはブログとジャーナリズムを結びつける人が多いことからも分かるように、社会的に見て公正であることが第一だ、みたいに考えている人が多いようだ。そもそもぼくはこの「ジャーナリズム」とカギカッコでくくれる言葉が嫌いだ。せいぜい自分の信じる何かに対して誠実かどうかでしかないのに、ジャーナリズムはいつの間にか不遜にも公正さを謳い、同時に我こそは正義であると主張したがる。公正な正義なんて、あるわけないのに。朝日新聞には朝日新聞の、聖教新聞には聖教新聞の、赤旗には赤旗の、読売新聞には読売新聞の、日本経済新聞には日本経済新聞の正義がある、というのが当然と思うんだけど、そんなことを言う人は少ない。その傾向は、昨日もちょっと書いたけど、社会規範を離れているはずのネットにおいてこそ顕著に表れているように思う。
ともかく、上記の記事と同じ理由で、伊集院光がラジオで言ったという、wiiがよくてPS3はダメだって話(http://tuneari.fc2web.com/radio/ijyu060515.html)も、それが「正しい意見だ」とは、ぼくには思えない。せいぜい「自分に誠実な意見だ」とは思うけど、「ゲーム」というものをあくまで彼の理想でしか捉えていない、とも思ってしまうということだ。ぼくはPS3なんて欲しくないし、PSPも欲しくないし、DS Liteが欲しくてたまらないくせに、そう考えてしまう。実につまらない人生だ。