以下のURLの文章を読んだ。
http://blog.japan.cnet.com/sasaki/2006/05/post.html

断絶や認識のズレを埋めていくためのツールとして、インターネットは有効に作用するのではないかとここ数年、私はずっと牧歌的に考えていた。Web2.0に象徴されるような新しいインターネットの世界では、マスメディアが発信した情報も個人が発信した情報も、すべては相対的にネット上に表れ、それらを人々が取捨選択してみずからの内へと咀嚼する。それによってリアルな世界では解消されなかった「権威」が解体され、すべての言説は同じ土俵の上に表出する。われわれはその相対化をきちんと受け止めなければならない時期に来ている。

相対的に表れてしまうからこそ、すべての言説がフラットに並んでしまうからこそ、取捨選択にバックボーンが必要になってしまう、というのが現状なんじゃないかな。
これは、あらゆる言論の相対化とは(ついでに言うと「いわゆるイデオロギー」の解体も)、言論そのものを成り立たせなくなってしまうということを露呈してしまっていると思う。つまり、

権威や組織に寄りかかるのではなく、自分の信じる論理

という言葉は、漠として、つかみ所がない。「信じる」「論理」がどこに去来するのかを安易に見落としているし、その「論理」が確かで、「権威」や「正義」が不確かであると言うことも、同様にできなくなってしまうはずなのだ。だから、

フラットになるということは、こうした絶対的正義をも許容しなければならないということなのである。これはなかなかたいへんなことだし、抱えていくのは非常につらい。フラットの呪縛と言うべきだろうか。

この、「フラットの呪縛」という言葉は、全くフラットではない発想である。
関係あるような、ないような話をすると、ネットで他人を罵倒する言葉を見ていると、「キチガイ」でも「ドキュン」でも「アニオタ」でも「ピザデブ」でも「童貞」でもいいのだけれど、どれも、背景にあるイメージを解体してしまうと罵倒語として成り立たない。当たり前だ。
逆に言うと、そういう現実における具体的な価値を持った言葉こそが、罵倒語として選ばれる。そういう場合、例えば、ぼくみたいに他人からバカとかキチガイとか言われると喜ぶ奴がいるなんていう発想は、自信満々に切り捨てられている。もちろん、それも当たり前のことだ。
そこにおいて「権威」や「絶対的正義」は、フラットな関係で言論を戦わせるために追放されたりしない。むしろ、すべての言論が相対化された場において議論を成り立たせるため無意識に援用されたり、あるいは論理を補強するために、またはひとえに対立軸を明らかにしたいというだけの理由で、意図的に再構築されることだって、ネットでは、何年か前から日常的に見られることだ。
しかしもちろん、これは困難な状況だと思う。「インタースフィア」は、人々の議論や相互理解を助けるためではなく、断絶を露わにするために作用しているのだから。

それは一種のディスコミュニケーションであるけれども、ディスコミュニケーションもひとつのコミュニケーションのあり方であって、だからこそ私は「多様性を容認する新たな日本社会

というのはたぶんそういうことだろう。そしてそれを認めるなら、いいとこだけ乗っかろうというわけには、もちろんいかないと思う。
そしてこの状況は、ネットにおいて分かりやすく表出したんだけれど、元々ぼくらの社会が持っている構造であって、あまりにもあからさまに表れてしまっているから、ぼくらはひどくばつが悪くなってしまっているというところなんじゃないかと、ぼくは思う。そんな呑気な話でもないけれど。