以下の文章をずっと書いていた(マジで)。
MOTHER3の物語は以前に開発が中止されたMOTHER3を言葉通り新たに作り直したものになっていて、ゲーム開始直後にそのことに気付いて、まずショックを受けた。てっきり完全に違うものを作るんだと思いこんでいたが、そうではなかった。だからポーキーがあのあとどうなるのかが語られるに違いないと思ってとても緊張した。
作り直したのであるから、たぶん、糸井重里が頓挫したMOTHER3について語った「それまでのMOTHERファンを突き放すものだった」という内容も、ある程度、もしくはそのまま盛り込まれているんだと思う。だからかどうか知らないけど、ぼくはこの物語を最後まで見て、これは確かにMOTHERだけど、でもこれは自分の思ってたMOTHERとは違う、だけどやっぱりMOTHERだ、というような感想を抱いた。
ぼくがこの物語がどういうものなのかはっきり意識したのは、「ドラゴのきば」が「物語上でしか必要ない道具」だったときだ。あれは、なにか効果があるわけではない、「ゲームとしては」全く不要なアイテムなのだ。そこに引っかかった。
ちなみに、その「ドラゴのきば」が使われるのは、「いいニュースと悪いニュース」のセリフが出るシーンの後に訪れる戦闘においてだ。伊集院光糸井重里が動画の中で言っていたのもこのシーンだろう。ドラゴのきばが手に入った事を「いいニュース」と表現してしまう事に、このゲームの引っかかる部分は作ってあるのだが、ぼくはそこでは引っかからなかった。そこに引っかかるくらいだったら、一番最初にお母さんが鳩を飛ばして、スキップ不可避のテキストを読まされたことのほうがずっと引っかかった。そして、このゲームのコピー「奇妙で、おもしろい。そして、せつない。」を見たときに引っかかっていた。つまりこれは、いわゆる「ゲーム」じゃなくて、糸井重里のセンスで語られる「泣ける物語」なのだ。
ちなみにぼくは、このコピーが嫌いだ(ついでに言うとダヴのCMみたいなテレビCMも嫌いだ)。ぼくには、上述した物語の演出すべてが、「お前の心に傷を付けるよ、痛いでしょ」と言っているふうに見える。そして、あのコピーはそれをまとめあげている。糸井重里は、あの物語が与える傷が人にどう受け止められて、どうやったらそれを癒せるのかをある程度把握して、それをコントロールしている。ぼくが「嫌いだ」というのはそこで、つまりこの傷の付け方は、かえって安全すぎるのだ。
MOTHER2と3が最も違うのは、最初からこの物語が、まさに物語然としていることだ。2では、最後の最後で「これがゲームである」ということをプレイヤーに強く意識させ、かつ、それを乗り越えてくる仕掛けがある。あそこで繰り広げられていたのが、どこか遠くにある「別の現実」なんかではなく、コントローラーを持ったプレイヤーがのぞき込み、介入している不思議な「物語の世界」だ、ということが露わになる。2のラストの持つ感動というのはそれである。だが3では、ゲーム世界が最初から、どこかに「現実」として存在しているかのようには振る舞わない。キャラクターは、「お話の世界」の人たちとして、プレイヤーに語りかけてくる。おそらく、2においても、本来は、つまり糸井重里の物語に対するもともとの姿勢自体が、そういうものなのだと思う。2において最後までそれが隠されているのは、まさに隠されていることこそが最後の演出のポイントになるからだ。物語のキャラクターであることを前提としたキャラクターたちが、「物語」として、「せつない」物語を「演じ」、泣くことができる。そして、あとはそれにのるかそるかなのだ。それを気に入るかどうかということは、結局は好みの問題でしかない。ゲームをやりおえて、あの「ヘンよい」の糸井重里ですら、もうスキマには、いないんだなあってことを、今さらのように思った。
あのスキップできないテキストを見て「死亡フラグが立った」的なことを考えることは十分に可能で、しかし、ぼくはそういう冷笑的な姿勢でゲームをやりたくはない。かといって、ぼくが欲しかったのは、それに対してあえて泣いてみせるような安全な傷じゃない。「そして、せつない」というのは、「全米が泣いた」と、ぼくの中では変わらない。ぼくは、さあみんなで泣こうと言って、泣くために作られたドラマを楽しめない。だからこのゲームが全くふざけたことを言ったり、乱暴な描写を見せたとしても、本当の意味で不快には思わないし、悲しくもならない。
でも、ぼくがよく思うのは、糸井重里がそういうものを作ることを、批判するのは筋違いだということだ。いつしか糸井重里は、感性やセンスありきの話ばかりするようになって、殊に、自分のセンスについての話ばかりになっていて、ぼくはそれを嫌ったけれども、しかし彼は、おれのやることにのるかそるかでのらないなら、ほかの楽しいもののところで楽しめばいいじゃない、と言っているようにも感じるのだ。スキマ産業がなくなって、個々の好みがあるだけだったら、あとは本当に好きなものを選ぶか、そうでもないものを「あえて」楽しむのだ。それはとても正しいと思う。そして、彼は自分のセンスのにプライドを持って、そうでないものを拒否しているから、正しい老成だと思う。そうしないでいることは、今という時代に、かえって嘘を付くことだと思う。過去に何度か、「自分も糸井重里が嫌いである」という人が、ぼくにいろいろと糸井重里についての批判を語ってくれる機会があったが、そのような人は、失礼だがぼくがこのような形で彼を評価し、そして評価しないということを、たぶん理解していなかったのではないかと思うことがしばしばだった。
でも、今はあらゆるものがありながら、どれも気に入らないこともあるという、奇妙な時代でもあると思うんだ。そうなってくると、スキマが成り立たないんですとか、ご自由に好きなものを選びなさいというのは、方便でしかないと思う。そして、じゃあ誰もが表現者になれるから自分でスキマを埋めればみんなが幸福、というのだって、果たしてそれがそんなに幸福なやり方だとは、ぼくには思えない。
でも、だからといって、結局、00年代以降においては、いまだに、「むしろ」「あえて」泣かざるを得ないのだなんて甘ったれるのは絶対にイヤだ。